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ガイドのふ〜さんと碑めぐり 〜 ナガサキ 〜

ギンギラ真夏もどこへやら
過ごしやすい秋、大好きな季節となりました
ちょっと前の暑い時期のこと

実家の近くには、至る所に戦争の遺構、碑が残る
最後に碑めぐりをしたのは小学生の頃、夏休みの自由研究
子どもだったせいもあって、やらされた感じで
つまらなそうなしかめ面の写真に見覚えがある
2022年夏40年ぶりの猛暑の中、1日かけて改めて巡ってみることに
(碑めぐり=被曝の実相を伝える「碑」を巡ること)
修学旅行生に向けボランティアガイドを行う
母の友人でもあるふ〜さんと一緒に

最初の碑めぐりは
原爆落下中心地からわずか500mのところにある
城山小学校
永井坂という長くなだらかな坂の途中にある防空壕跡が残されていた
坂を登り切ると
現校舎が見え、少年の石碑が目に入る
校舎敷地内にある平和記念館は
被災した校舎(当時渡り廊下として使用されていた部分)の一部を
被曝校舎として保存し
訪れる人に当時の様子を伝える役目を果たしている
電話でご対応いただいた被爆者でもあるボランティアガイドの三田村さんが出迎えてくれて
体験したことを交えながら展示資料の説明をしてくれた
展示中の写真や資料は悲惨なものばかりで
三田村さんの表情や一言一句が重たい

1945年、城山小学校は白亜の宮殿と呼ばれ
3階建ての鉄筋コンクリートは
100年前に建てられたとは思えないほど
近代的でモダンな外観だった
(1923年、長崎市城山町の小高い丘に、城山尋常小学校として開校)

77年前、1400余名の児童と職員が命を失うという甚大な被害を受けた
その中には、戦況の悪化により
疎開していた学徒動員も含まれていて
当時120名ほどの学生が2、3階で勤務中であったが
約100名ほどが犠牲となった。
奇跡的に生き残った荒川先生(当時の教頭先生)は
校舎の保全や原爆殉難者の碑の建立などに尽力し
戦後、校長として城山小学校に戻り平和を願う教育の基礎を築かれた。
この小学校では毎月9日には「9の日」と言って(投下日の9に合わせ)平和活動を継続している

もっとも印象に残ったのは
被爆者自身が
原爆投下直後の町の様子を描いた

【原爆被曝惨状絵図】

なぜ被爆者自身が辛い光景を思い出しながら
描く必要があったのか
長崎は陸軍の要塞地帯であり軍需産業の比重が高く機密保持のためカメラの携帯が
厳禁となっていた。
そのため被曝後撮影が開始されるまでの約20時間の間の写真は残されていない。
その空白の20時間を被爆者自身が脳裏に焼きつかれた惨状を絵画で伝えたのが
この絵図だ。
とても貴重な記録作品になっていた
(※撮影禁止のため画像無し)
突然のことで状況がわからないまま
町を彷徨う工員の様子
たくさんの屍を火葬している様子などを
描いた作品が
現在の在校生の解説付きで7点展示されている。
調べたところ全部で61点あるようだ
もう少し多くの人の目に触れるようになればいいのにと思う

学校敷地内では
防空壕跡、記念碑などいくつかの
遺構が残る

三田村さんは、こんなに若い人(三田村さんから見ると若い、という意味)が熱心にきてくれて
本当に偉いですね
と、仰っていたが、もっともっと本当に若い世代にいかに継承していけるかが
今後の課題なのではないかと感じた

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城山小学校(城山小学校平和祈念館)

基本情報
住所 長崎県長崎市城山町23-1
電話 095−861−0112(見学についてのお問い合わせ)
開館時間 9:30〜16:30(休館日 12/29〜1/3)
入館料 無料
アクセス 長崎バス、市民プール前バス停から徒歩3分
※駐車場無し

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そのほか
長崎原爆資料館をはじめ周辺には
見学できる遺構がいくつか点在する

【今回の碑巡りコース】
長崎原爆資料館→ 「平和の祈りキッズゲルニカinながさき~国際子ども平和壁画展~」→
原爆落下中心地→平和公園→浦上天主堂→永井隆記念館(既に閉館していたため中の見学はできず)、如己堂→
山里小学校(夏の終わり、飢えた蚊に襲われる)

キッズゲルニカが見えてきた

わお!
参加したい!

平和記念公園入り口にある防空壕跡

浦上天主堂旧鐘楼(国指定史跡長崎原爆遺跡)、当時の破壊力が伺える

山里小学校内にある防空壕跡

中で繋がっている

そして、ふ〜さんがぜひここをみてほしいと最後に
ガイドしてくれたのが
Googleマップにも載らない、とある墓地
ここは被曝により亡くなったキリシタンの方が埋葬され
十字架をあしらった墓石が並ぶキリシタン墓地だった
ミカエル、ドミニコ、などと刻まれ
戒名はなく
8月9日と亡くなった日が記されていた
弾劾されながら
信仰心を持ち続けたキリシタンの歴史
シンボリックな存在となったのが浦上天主堂
1914年建築計画からおよそ40年の時を経て
東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として
献堂式(キリスト教で教会堂を建築した際に執り行われる儀式)が挙げられた。
1945年、原爆の投下により倒壊
1959年、鉄筋コンクリートで再建、
1980年、ローマ教皇の来崎に合わせ
レンガタイルで改装された
爆弾が落とされちゃったら、現存するのは
流石に難しい
倒壊前のレンガ造りの聖堂は美しい建築物だった
そのまま残っていたらなぁ
と、少し残念に思う

https://konjaku-photo.com/?p_mode=view&p_photo=1759

長崎はどうしたわけか、広島と比較しても遺構が少ない
原爆ドームは世界遺産
広島のランドマーク
国内外に向け強烈な印象を与え続ける

https://nagasakipeace.jp/content/files/minimini/japanese/j_gaiyou.pdf

なぜ長崎に遺構が残らなかったのか
世界に向けて積極的に発信しなかったのか
そこにはキリシタンが多かったことも原因の1つだったのではと
ふ〜さんは話していた

戦争を体験していない世代であり
怒り悲しみといった感情を抱くのは難しい
当時のことを知り、今後何をするべきか、どのように発信すべきなのか
未来をどのように導くことができるのかについて
考えることはできる
この世界からまるで戦争をなくすことは
なかなか難しいのかなと、思いたくないけど思う
せめて
日本が平和であることに対し感謝する気持ちを忘れないでいたい
日本という国のため
命を犠牲にして
戦い続けた当時の人たちに対し

いつか広島も訪れ
「Message 〜HIROSHIMA〜」を絵画作品として制作したい、しなければと思う。

最後に長崎港をぐるりと囲む風景をご紹介
(本文とは全く関係ありません・・・)
2022年9月23日に運行を開始する西九州線新幹線「かもめ」
それに備え長崎駅周辺の開発は一気に加速しているのでしょうか
ビルだらけの町に変わろうとしています
長崎港の周りには警察庁や県庁
駅の周辺には
ショッピングモールやホテルが建ち
スタジアムも建設中
観光収益をメインにまちづくりを進めてきているのだろうけど
市民が置き去りなってはいないだろうか

年に2回行われていた実家の前の草むしりが1回となり
お願いしてもなかなかきてくれないと母はぼやく

 

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