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長崎歴史探訪 梅屋庄吉という人

旧香港上海銀行長崎支店記念館
下田菊太郎の設計により明治37年(1904)に建設された煉瓦および石造3階建の典型的なファサード建築
香港上海銀行長崎支店の新社屋として建てられた
下田菊太郎氏は当時建築界の異才と呼ばれていた建築家
香港上海銀行は、開港して間もない幕末の長崎に代理店を置いて活動を始め、
明治25年(1892)に長崎支店を開設
明治時代の洋館をイメージするような建物だった

2階は、孫文と梅屋庄吉の交友について展示されているミュージアム
孫文については高校の世界史の授業で習った記憶かろうじてあり

さて梅屋庄吉とは

日清戦争以後,清(中国)は,列強諸国にどんどん侵略されていく。
そのような中,清を倒し民族の独立を守ることのできる近代国家をつくろうとする革命運動が起きる。
その中心となったのが孫文であり
庄吉は孫文の革命にかける情熱をしり

「君(孫文)は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援す」

という盟約を結び、一生をかけて、物心両面から孫文を支え続けた。

外国船が頻繁に往来する港町 長崎で育った好奇心旺盛で行動力のある庄吉
長崎は歴史的に中国と結びつきが強く、また、鎖国時代を通じて西洋への窓口であったことから、
最先端の知識や技術を学ぶことができる街だった。
こうした長崎の風土は庄吉の卓越した国際感覚や時代を先取りし先鋭的な物の見方をはぐくむ。
明治初期でありながら、中国、東南アジア、アメリカへと旅し
わずか14歳で上海へ
その時、欧米人から屈辱的な扱いを受ける中国人をみて庄吉は怒りを覚え
以来、シンガポール、香港に移住
写真館を開業し
帰国後は映画ビジネス業「Mパテー商会」を始動
莫大な財をなす
欧米諸国に植民地化されていたアジアを
もっと強い国にという情熱が起業への後押しになったか否かわからないが
強い信念と哲学を持って
生きていたことは間違いない

百聞は一見にしかず
肌で感じて、考え、行動に起こす
羨ましくなるほどの
ロールモデル
心の根本に根付いてる
私の中にある信念って
・・・・・こういう生き様が
本当に羨ましく感じる

今とは全然違う価値観ということを踏まえ
歴史から学べることはあると思う
歴史を面白く学ぶコテンラジオ(COTEN RADIO)を運営している株式会社COTEN 代表の深井龍之介さんが
田村淳のNews CLUBにゲストとして登場した際
歴史から学び考えると話す
教科書では知り得ない
人物の性格、暮らし、家族との関わり
そんなパーソナルな部分から歴史を紐解いていくから
とてもドラマティックな話になる
織田信長、ガンジーの回なんて最高に面白かった

庄吉が好きだった言葉
「富貴在心」
富や尊さは財産や名声ではなく心の中にあるもの
人は持ち物の多少に依ってその価値が定まるものではない。
人の価値は魂にある、という意味。
庄吉はこの言葉通り、見返りを求めず
困っている人を助け続けた。

そぉか・・・・・・・
そぉかそぉか
そっか
そぉだね
そぉなれると
自ずと
仕事の仕方も変わるのだろうか
事業を運営していると
「知名度=仕事の量」
広告大事、知ってほしい、と思う
だから、こうやってせっせと
ブログも書き、SNSにアップロードする
もっと深い所で考えていかないと
ブレない信念を持たないと

孫文
1866年中国の現・中山市に生まれる。
中国における革命運動の指導者であり、
辛亥革命によって建国された中華民国の臨時大総統。
1925年、58歳で死去。

梅屋庄吉
1868年(明治元) 長崎に生まれる。
現在の日活株式会社の前身である日本活動写真株式会社の創立者の一人。
1934年(昭和9) 65歳で死去。

自分が生まれ育った街
住んでいた当時はさして興味もなく
年月を隔て
学びたくなるときがあるんだから
全然興味のない時に学ばされ
テストまで受けさせられ
それが受験にまで影響したりするもんだから
たまらんねぇ

 

大浦天主堂

グラバー園

グラバーさんの邸宅
途中で増築した港を眺める温室には緑が溢れていた。贅沢〜

フルーツポンチが美味しかった

 

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