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表現することについて考えるとき 〜社会をノックし続ける〜 超相対性理論 

「美」とは何か
以前タモリさんがTHE BLUE HEARTS「リンダリンダ」の歌詞「ドブネズミみたいに美しくなりたい」について
「美しさときれいさをちゃんと分かってる人じゃないと書けない(詩)」と話していたのが
とても印象に残っています。
最近のお気に入り
「超相対性理論」(podcast番組)

学びデザイン 荒木博行さん、COTEN 深井龍之介さん、
Takram 渡邉康太郎さん 3人が毎回1このテーマについて
アート、サイエンスの話もちょこちょこまじえながら深掘りしていく番組です。
(#87からは、荒木博行さん、渡邉康太郎さん+毎回ゲスト)
突然、深掘りが斜めになったり、全く別の角度から掘りはじめたり。理解不能状態になったときは、倍速をやめて聴き戻す。聴けば聴くほど迷走する、不思議な現象が起きてしまう。

「 #23 美とは何か(中編) 」

耳に残った印象的なところを抽出してみる(中編〜後編)

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間違いを犯すことに怯えているのは外部に判断基準があって
自分の中に確固たる価値判断基準がないためである。
内部に自分の軸(指標)があればへこたれる必要もない。

自分がイイと思えるのならば持ち堪えることができる
作品を作ることは自分の価値判断基準を
外に出す、世に問うということである。
それは批判されることと同義でもある。
皮が剥がれ肉も切られるが骨(自分の軸、信念というところでしょうか)だけは残る
時には骨ごと入れ替えることもある

つまり、社会の判断基準と照らし合わせ検証し続けていく
絶対と相対を切り分けるより
世界をノックし続けることで、ちょっとずつ表現を変えていく。

価値判断基準を自分の中にビルトインしておくこと

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腹落ちできているのかできていないのか

表現において自分の世界観に辿り着けたら最高だなぁと思う。

(それにしても
自分の思考を表現する行為を
「ノックする」と表現するところがオシャレすぎて仕方ない・・)

表現したいことについて行き詰まり
気分が滅入ると、全く別のことに興味が湧いてきてというか逃げ場を探して
スマホなんて最も厄介なもので、とんでもない発明をしてくれたものだなぁとため息が溢れる
なんでわざわざこんなに疲れる思いをしてまで絵を描いているのかなぁと原点にまで遡る
「絵を描くことは楽しいですよね」と笑顔で言われ
「そーですね」といいつつ、心の奥の方では違うと言っている。
絵を描くことが好きで、なんて言ってる自分に対しても、
それは本心かい?と自分に問う

ただ1つ言えることは
描くことをやめてしまった時に
自分が生きていくために頼れるものを、失うような気がする
つかまるための棒がなくて
ボンヤリと生きはじめるような気がする
それを思うと
画家として生き始めた人生も
捨てたものではないのかも

 

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